「ちはやふる」あれこれ

「ちはやふる」ほか、好きな漫画、アニメなど。

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新にとっての団体戦とは何だったのか?

注: 長いです。眼精疲労にお気をつけて...(*´-`)

しつこく言いますが、新ファンで既存の物語との整合性を重視したい派の私は、どくのぬまちのような鬱展開でHPが削られまくった後に投下されたあの三位決定戦を「今でも」「往生際悪く」「大層根に持って」います。
(だからしつこいってばwww)

しかし、173首(33巻)で正規ルートに向かって強制ワープがかかった感があるので、新にとっての団体戦の意義などを総括してみました。特に千早と新の初の公式試合となった三位決定戦については、瑞沢、チームちはやふる、ジェダイ太一の帰還、千早の超サイヤ人化、新の気持ちなどあまりに要素が入り混じって複雑なので、本記事では新サイドに焦点を絞って考えてみました。団体戦そのものの是非については触れないスタンスです。一部ネタバレを含みます。


●新サイドから三位決定戦を振り返る

いきなり個人的邪推をぶっちゃけてしまいますが、私は高3の全国大会の勝敗は、千早、新、詩暢ちゃんのそれぞれが誰かに敗北するという結論ありきで定められたものではなかったかと思っています。(新は千早に、千早は詩暢ちゃんに、詩暢ちゃんは新に負ける三つ巴。)

確か猪熊さん(桜沢先生だったか?)のセリフに「人は負けなければそのままよ 強くはなれない」というのがあったと思いますが、この「人は負けて成長し、強くなる」という思想が「ちはやふる」の世界の神様のルールブックに存在すると仮定してみると、この3人が敗北によって得たものが見えてくるような気がします。

千早 → 世界一になりたいという目標の再確認
詩暢ちゃん → 自身を変えていくことへの決意
新 → 恋愛面とかるた面での変化(獅子の目覚め)


まずは、新の視点から三位決定戦の流れを順に追っていきます。

①瑞沢のキャプテンとしてのみかるたを取る千早に驚く
②千早のかるたを分析し「いつもどおり」いこうとする
③「余計なことを考えん奴が強いんや」という始じいちゃんの言葉を思い出す
④千早を見て「音と札だけの世界 すさまじい集中」と思う  (←多分余計なことを考えている)
⑤「千早 おれやよ」
⑥ガリガリの「せ」狙いで「せ」を取る
⑦千早の目線が少し上向きになる
⑧「ずっと取り返したかった 目の前にいるのはおれやよ」  (←多分すごく余計なことを考えている)
⑨「ちは」が読まれ、千早が太一に気づく
⑩千早が正気に(?)戻る
⑪新が千早に敗北する


ここで言う「余計なこと」とは、試合中にも関わらず、対戦相手の千早に「千早」らしくあってほしいと願う新の想いでしょうか。
一連の描写が千早と太一はチームちはやふるへの回帰を思わせるのに対し、新だけは「せ」の札にそれとは別の想いを託しているように見えます。

新は⑤の「おれやよ」の前に「す」を千早に送っていますが、戦略的には普段の新らしからぬ送り札であり、その次の出札の「せ」を取るためのものだったことが村尾さん視点で描写されています。
そして「す」と「せ」の歌の意味とは...

「住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ」

【意味】
住之江の岸に何度も打ち寄せる波のようにいつもあなたに会いたいと思っているのに、なぜ夢の中でさえあなたは人目を避けようとするのか。
(※人目を避けるのは「私」という解釈もあるが、どちらにせよ恋しい人に会えない切なさを表現した歌)


「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

【意味】
川の流れが岩に邪魔をされて二つに分かれてしまっても一つに合流するように、私たちもまた必ず逢おう。



・・・これはまさしくラブ案件。新君ったらシレッとした顔して「す」を送りつつも、千早に向かってめちゃめちゃ矢印を飛ばしています。
(矢印を量的に表すなら、(新)ビー⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ム(千早)ぐらいでしょうかwww)


でも、いつもなら楽しそうにかるたをしていたはずの千早は、ただただ瑞沢チームを背負って音と札だけの世界にいる。目の前の自分を見ようとすらしない。この時の新の胸を支配するのはどうしようもない寂寥感、でしょうか。

私などはこの辺りの新の心情を想像すると割とガチで泣けてくるのですが(太一を壁ドンしたくなる気持ちもまぁ分かるかも...)、実際問題として新は千早に気を取られて藤岡東チームの様子を気にかけることもなかったわけで、結果として藤岡東の主将は瑞沢の主将に完敗した。

つまるところ、藤岡東は瑞沢と比べて、経験も費やした時間も仲間との絆も責任感も(ついでに作中での描写も)圧倒的に足りなかった。32巻で管野先生に「団体戦を磨いてきた他の高校に失礼や」とバッサリ切られていますが、いくら新でも周回遅れのチーム作りでは「間に合わなかった」のでしょう。
(なお、個人的には新が個人戦に出ないと言ったのは、試合中にチームを顧みることのなかった反省からのチームメイトに対する贖罪の気持ちだったのではないかと思っています。)

表彰式の後、新は一人ソファで「身体のはしから焼かれていくような 息もできないような」感情に手を震わせます。
(新の様子を見た太一が隣に座ってモノローグで「わかるよ」と言っていますが、これには経験者ならではの兄弟愛(?)的な優しい目線を個人的には感じます。だってホラ、千早の視界に入りたくても入れなかった日々や、千早に勝ちたいと思って頑張った日々を太一に語らせたらそりゃあもう色々・・・ねぇ?)

この時、新の中では様々な感情が渦巻いていたでしょうが、一つ言えそうなのは、チームを背負った千早は「いつもどおり」のあの部屋のイメージでは勝てない相手だったということでしょうか。新は藤岡東でチームを作ってみたものの、もしかしたら「おれにとってチームは唯一 太一と千早やったんや」(16巻)の認識から完全に脱却できていなかったのかもしれません。

そこから「いま以上の強さを身につける」(171首)ため、あの部屋のイメージを手放すことを決意します。

好きな子にかるたで負けて これまでの自分でいいなんて思えんのや

それが三位決定戦に敗北した新が導き出した答えです。


●新にとっての団体戦とは

新がチームを作った理由については、管野先生によって新一人では越えられない壁(周防名人)を超えるためであろうことが示唆されています。これについては過去の描写との繋がりが不明瞭な部分もあるのですが(富士崎との練習試合関連とか)、団体戦の経験は今後周防名人と対峙する際に生きてくるようですから、そちらを楽しみに待とうと思います。

では団体戦の結果、新は何を得たのか。
まだ曖昧ではありますが、一言で表すと「他者の存在を感じ、それを自分の力に変えるかるた」でしょうか。これまで始じいちゃんの「最高のかるたのイメージ」という自己完結型だったのが、団体戦を経験したことによって、外に向かって開かれた、新自身が模索して得たかるたのカタチがようやく見えてきたというか。新の中のイメージの引き出しが増えたとも言えるでしょうか(変数を持つ外部からのパワー供給型のイメージ)。

賛否両論はあろうかと思いますが、私は新のカルターとしての本質は、17巻の「詩暢ちゃん 崩していくで」に集約されると思っています。新のかるたは、対戦相手を分析して長所を崩していくイヤなイヤ~なかるたであると描写されていますが、恐らく新というカルターは、クリーンなかるたという自己ルールの範囲内であれば、目的のためなら最良と信じる手段の選択に躊躇がないタイプの戦略家であり、幼いころからずっと名人という高みを目指して勝負の世界にいた厳しさを持ち、しかもそれを楽しんでいる。

171首で詩暢ちゃんが「新とうちに差があるとすれば 流れを呼び込む力」と言っていましたが、新にとっては団体戦のイメージもここ一番のかけ声も流れを呼び込むための手段なのだろうと想像します。捨て札を作っても勝負どころで勝負に出て、きっちり取って相手に気持ちよくかるたを取らせない。新の真骨頂は、こうした対戦相手を見て、状況に応じて打つ手を変えていく柔軟性なのではないかと思います。
(例えば、詩暢ちゃんは昨年とは異なるアプローチ(全方位)で試合に臨みましたが、新に札を読まれていましたね(172首)。ここでは新が「うら」ではなく「相模」と言っていて、さすが詩暢ちゃんの事よく見てるなぁと思いました。)

173首では村尾さんが個人戦で優勝した新を見て、「もう一段強くなろうとしたんや 自分以外の力を借りる不安定で貪欲なかるた」と評しています。じいちゃんの教えによりかるたが一番楽しかったあの部屋のイメージ(固有結界?)によって具現化されたのがニコニコ眼鏡「ちはやぶる」ですが、自分の外にもエンジンを置く今回のかるたはその対極にありそうな感じですね。「ちはやぶる」の対となる力といえば「荒ぶる」(11巻)ですが、もしかしたら団体戦のイメージによってイケイケ(?)眼鏡「荒ぶる」が具現化されたのでしょうか(空想具現化?)

(奏ちゃん解説では、「荒ぶる」は悪い神の力でバランスの悪いぐらぐらと不安定な回転の独楽のようなものとのことですが、例えば日本神話でもスサノオが乱暴者になったり英雄になったりするので、「悪い力」と言い切ってしまうと一義的すぎるかなとも思います。)

上記解釈が正しいか分かりませんが(むしろトンデモ説の可能性あり...(^^;))、もし「ちはやぶる」と「荒ぶる」の両方の力を手に入れたのだとすると、綿谷新(17)の全能感が半端ないことになりますね。ともあれ、新は「あの部屋ではもう取らん」と言っているので、少なくともじいちゃんのかるたからは脱却し、「おれがおれのまま勝つには」(23巻)という問いに対して自分なりの解を得たのでしょう。そして、それがかるた面での獅子の目覚めに相当するものと現段階では理解しています。


●あらちは万歳

小学生以来のエア純愛(失礼)をずっと心の支えとしてきた感のある新ですが、三位決定戦で一度戦ったことにより千早との距離が近くなったというか、現在の等身大の姿を見つめるようになったように感じます。
(同じコマに千早と新の2ショットが普通に描かれるようになっただけでも、何だかもう泣きそうですわw)

26巻では太一と戦った高松宮杯を振り返って「ちはが出たらどうなってたかな」な~んて言っていた新ですが、173首で千早を見て「手に入れたいものほど手放すの」を回想している時には何かを決意したような男の子の顔になった印象を受けました。

173首は長きに渡るあらちは飢餓のところに突然ぶっこまれた少女マンガ的萌え度の高い回でもありました。新くんは千早の「日本一・・・世界一になりたい」というかるたバカ全開の決意表明に、やっぱり惚れ直しちゃいましたかねぇ~(*´艸`)。何だかんだ言ってあらちはに夢を抱いている一読者としては、放置プレイ → 焦らしプレイへの変化に喜んでいいのやらという気も若干しますが(亀の歩み・・・)、かるたバカ同士それで通じ合っているようですから、この2人的にはノープロブレムなのでしょうね。
(でもこのシーン、千早らしい千早がようやく見られて本当に嬉しかったです。これで「ちは」も戻ってきたかな?)


かるたをしてれば おれらの道はいつか重なる 
「いま」じゃなくていいから もっと近づいたら おれのことどう思ってんのか聞かせて 近くに行くから



・・・どう見ても千早を口説いているようにしか見えない新くんですが、どこまでいっても彼らしい相手を尊重した押し方がいいですね。かるたの道の延長線上にお互いがいて、男の子としても千早に近づきたい心意気が滲み出ています。(しかも「近くに行くから」とダメ押し付きですよ奥さん(*´皿`*))

非常にゆっくりとではありましたが、17巻の千早から遅れること16巻分で、新の恋愛面はようやく「ちはやぶる」に到達したのだろうと思います。


【結論(?)】
福井県あわら市には神の子が住んでいる。


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千早が大人の階段のぼったら

ウルトラスーパー書くのが難しかった、主人公の千早についてのあれこれ。
新との出会い、および太一との立ち別れを経ての千早の成長について、おさらいを兼ねて原点回帰をしつつ考えてみました。新エンドを前提としています。

千早がいずれ体現していくであろう「千早振る」については、現時点までの作中で与えられている情報から考察するのが難しかったので、全く触れていません。
また、リンク先(独り言部分)に作中の描写に対する批判とも取れる記述を含んでいますので、気にされる方はご注意ください。

なお、タイトルは「想い出がいっぱい」というH2Oの曲からです。
かの有名な(?)「大人の階段のぼる」というフレーズの元ネタになった曲ですが、ご存じない方がいらっしゃいましたらすみません。


●君がくれた情熱

千早の性格的な特徴といえば、素直、まっすぐ、漢前、強欲といったことがあげられるでしょうか。

特にあの素直さは、クイーンを目指して強くなる上で、非常に強力な武器の一つだと思います。机君やかなちゃんといった自分より圧倒的にかるたが弱い人に対しても自分にはない良さを認めて、そこから素直に学ぼうとするところや、桜沢先生の「姿勢を保ちなさい」というアドバイスを即座に実行できるところなどは、本当に貴重な資質ではないでしょうか。私もこのようにありたいと頭では思いますが、実際になかなかできるものではないです。

素直さについては新に対しても同様の描写がされていますが、桜沢先生のセリフの通り「変われることは財産」ですね。二人とも自分にはないものを貪欲に吸収して、これからも成長を続けていくのでしょう。


小学校時代の千早は、お姉ちゃんの夢=自分の夢で、何かに対する情熱や執着もなく、ただただ素直でまっすぐな子、そして、家族の中ではいい子過ぎる子だったと思います。年の近い同性の兄弟姉妹というのは、一般的には最も近しい遊び友達でもありライバルでもあることが多いように思いますが、千早にとって1歳年上のお姉ちゃんは絶対的に仰ぎ見る存在でした。千早の両親はモデルの姉にかかりきりで、親に対して我が儘を言える状況ではありませんでしたが、千早はそれに反発したり卑屈になったりせず、お姉ちゃんの一番のファンとして応援を続けました。

親も完璧ではないので、場合によっては上の子にかかりきりで下の子がおざなりになるというのは、世間一般的にはよくあることです(その逆もまた然り)。
しかし、いくら千歳の夢への扉が今にも開かんとするタイミングだったとはいえ、生まれて初めてもらった賞状を家族に全く評価してもらえなかったことは、幼い千早にとっては本当に悲しく寂しい出来事だったでしょう。

ただ、良くも悪くもイノセントな千早は、姉が常に優遇されたり自分がないがしろにされる状況にあっても、それを受け入れることに疑問や憤りを感じることはあまりなかったのではないでしょうか。

想像するだけでも胸が痛むような状況ですが、何よりも小児の自我の発達という観点からは、はっきり言ってかなり不健全な状態です。(登場初期の田丸さんのウザ自己アピールの方がよっぽど健全かと。)
そんな千早が新に出会ってその情熱とかるたを知ったのは、まさに運命の巡り合わせとしか言いようがなくて、出会えて本当に良かったねと思います。

(もちろん新にとっても奇跡の邂逅。「一緒にかるたしよっさ」を「一緒に生きていこっさ」に脳内変換できる女の子は、いくら漫画の世界といえども他に存在しないでしょう。)

千早は小6で新に出会って、彼の情熱と自分自身の内なる情熱を知った。そして新が自分の中に眠る才能や可能性に気づかせてくれた。
「自分になりたい」という太一の専売特許のようなセリフがありましたが、お姉ちゃんに乗っかってそのような意志すら持ちえなかったであろう当時の千早にとって、新との出会いは相当な衝撃だったことでしょう。

千早は、新と出会って初めて「自分」になることができたし、かるたやその周辺の物事に対する執着が生まれて、幸運にも「強欲」になることができたのではないかなと思います。


●仲間がいるのは楽しいよ

新と出会ってからの千早は、ただひたすら真っすぐに新に向かって走ってきた。
そして、あの情熱をガチで受けて立つべく頑張ってきた。

千早が本来、仲間がいた方がかるたが楽しい、かるたを他の人にも好きになってもらいたいというタイプであることは、何度となく描写されています。それでも、中学校時代や高校に入ってすぐの頃にかるた仲間の全くいない状況下での孤独に耐えられたのは、新とまた会いたかったから、そして新なら一人でも強くなっているはずと信じていたからであることが、福井での新との再会時(2巻)の描写で分かります。

新にかるたを蹴られた時、自分がそれだけの孤独に耐えて頑張ってきたのに、カッとなったりせずに即座にかるたができなくなった新の心情を慮ることできるのは、千早の大変すごいところですね。もっと新に裏切られたと感じたり、怒りを感じたり、失望したりしてもおかしくはなかったのに。それだけ新を強く信じていたのか、千早の性質がそうさせるのか、またはその両方だったのでしょうか。

その後、新は必ず戻ってくると信じ、太一と共にかるた部を作って仲間を増やす過程で、「新とまたかるたがしたい かるたは楽しいよって 仲間がいるのは楽しいよって 伝えたい」、「「ちはやふる」は 真っ赤な恋の歌なんだ」とのモノローグに続きます。
(夕日をバックに「ちはや」の札に静かに手をかけて、キメ顔で佇む新の姿が美しい。この、そっと札に触れている感じが良い。ついでに真っ赤繋がりで言うと、4巻で千早が初めて近江神宮を見たときに、千早の脳内イメージで「真っ赤やよ」と答える高校生になった新の穏やかな微笑みがすごく良い!)

「かるたは楽しいよ」と「仲間がいるのは楽しいよ」は、すでに十分なほど新に伝わっていると思うので、あとは「「ちはやふる」は 真っ赤な恋の歌なんだ」の部分に期待ですね。竜田川を彩る真っ赤な紅葉ちゃんは、千速振るわたの原にどのようにして辿り着くのでしょうか。大変楽しみです。


一方、千早の「仲間がいるのは楽しいよ」が高1の早い段階で実現したのは、太一の功績です。

将来のクイーン候補の千早は、瑞沢高校かるた部内では仲間ではあってもカリスマ性を持った異質な存在で、千早にとっての仲間とは「みんなでワイワイ何かやるのが楽しいんや(by 詩暢ちゃん)」というより、「仲間がいたら強くなれるから 一緒に強くなろう」(2巻)という位置づけだと思います。
千早のかるたに対する強い想いは、第三者から見ると言葉は悪いですが「ちょっとイッちゃってる」感があり、初心者やかるたに人生を懸けているわけではない普通の人間がついていくのは正直シンド過ぎるでしょう。

そうしたテンションも目的も違い過ぎるかるたバカと、かるた脳ではない一般人(かなちゃんとかを一般人と称してよいものやら悩ましいところですが)との懸け橋の役割を、太一が果たしてきたとでもいうのでしょうか。
そのおかげで、千早は良くも悪くもイノセントなままでいられて(まぁ、太一個人に対してもでしたが)、「仲間がいるのは楽しいよ」と無邪気に言うことができたのだと思います。

一番象徴的な出来事が高1の真島邸での合宿(3巻)で、千早は新規加入したばかりの机君やかなちゃんに限界以上の練習を求めて、太一に止められています。「そういえばよく言われてた 「千早ちゃんはかるたのことしか見えていない」って みんなかるた続けてくれなかった・・・ だめだなあ 私 だめだなあ・・・」とモノローグで語っています。

もし太一がいなかったなら、この段階で退部者続出で、かるた部は崩壊していたかもしれません。千早の剛腕でかるた部に人を入部させることができたとしても、その後の継続については太一の力によるところが大きかったのではないかと思います。

(このような文脈で考えると、太一が部員にやたらと慕われているのも何となく分かる気がしますね。また、かるた部発足時に千早を部長から外した宮内先生もグッジョブです。)


●大人への階段

その後、瑞沢かるた部は部員同士で密度の濃い時間を共有し、全国優勝も経験し、「ここにいればいいなあと思う人はもう家族」というほどの強い絆で結ばれた関係になりましたが、太一の退部後の高3の地区予選にて、太一が調整役を果たしてきたことや、千早の強さを孤立させないようにしていた(28巻)という構図が浮き彫りになりました。

一方で、将来は高校の先生になってかるた部の顧問になりたい千早にとっては、かるたのことしか見えておらず、かえって他の人にかるたを続けてもらうことができない、というのは致命的な欠点です。

太一との別離は、ある意味、太一の庇護状態にあったところからの離脱を余儀なくされるわけで、いつまでもイノセントなままではいられないということを意味します。
高3の地区予選および全国大会で、千早は太一の抜けた穴を埋めようと頑張っていますが、それは文字通り太一が果たしてきた役割を担うという以外にも、自分のかるたしか見えていない状態から脱するための、千早が大人になるための通過儀礼なのかもしれないなと思いました。(驚愕の尺取り虫だったけどね! ・・・と明るく言ってみるw)

<ボソっと独り言。気にされる方は回避してください。こちらも長いので後回しがおススメw>

さて、何だかんだと書きましたが、千早が様々な経験を経て、自分のかるた以外の方面でも著しい成長を遂げているのは間違いなさそうです。
不器用ながらも、千早自身の努力で「仲間がいるのは楽しいよ」が実現できた結果なのでしょう。視野が広くなったというか、かるた部の顧問になるという、千早のもう一つの夢への可能性が広がったような印象を受けます。今の千早の目には、以前とは違って色々なものが見えるようになっているのだろうなあと思います。

現在の千早は「想い出がいっぱい」で言うところの、「踊り場で足を止めて 時計の音 気にしている」(シンデレラの魔法が解ける(=大人になる)少し手前)状態ですね。そんな風に考えると、例え苦しくても大人への階段を一歩一歩、一生懸命のぼっていく千早シンデレラが何だか愛しいなあ。

階段をのぼれば、見える風景は少しずつ変わっていく。だから、もしかしたら第三者の視点から見ると、初期の頃の無邪気さゆえの熱さや真っすぐさが、変質してしまったかのように感じられるかもしれない。でも、形は違えど千早はやはり熱くて真っすぐです。例え以前の胸のすくような勢いが失われたとしても、それは成長ゆえのこと。それはそれでいいんだと、最近になって思うようになりました。

これからも夢に向かって自分の足で歩いていくんだよ、そして、すべて掴んで来い!と応援したいです。


【結論(?)】
宮内先生はいい先生ですね。

新についてのあれこれ

●新の出番プリーズ

綿谷新というキャラクターについて特筆すべきは何といっても、

・ メインキャラにも関わらず出番が少ないこと
・ 出番があってもモノローグが少ないこと

が挙げられると思います。

モノローグがある場合でもかるたを通して感じている内容が多く、それ以外の感情の動きはストーリーの展開上必要なシーンに現時点では限られているようです(ジリジリする気持ちとか)。これは、物理的に千早や太一と離れていることに加え、新が他者に対して強い影響力を持つ存在であるがゆえに、あまり心情を漏らすとインパクトが減るといった不都合が生じるのかもしれません。

一方、新は登場すればその大きな存在感と言動により物語を動かしていくことが多いのですが、モノローグが少ないがためにその言動に至るまでの彼の心情がやや見えづらく、共感しづらいという意見や、何かアクション(告白とか)を起こすと唐突な印象を受けるという意見があるのも理解できます。

ただ、私個人としては、新がブランクを経てかるたに戻ってからは、安定のかるたバカ一直線かつ率直な人柄であまり複雑なことを考えてなさそうなので、突発的に見える行動にもなぜか納得している自分がいます。言動に裏がないというか、「まあ彼がそう言うならそうなんだろう」という感じ。つまり、新のモノローグがなかったとしても、その言動にあまり深読みの必要性を感じない。新という人物は、悩みながらもこれからも夢に向かってきっとまっすぐに進んでいくだろう、「ルサンチマン」的な意味合いでダークサイドに落ちるようなことは決してないだろうと信頼できるんです。「ルサンチマン?何やそれ、食えんの?」的な。かるたの強さに対する信頼ではなく、人間としての強さに対する信頼、とでも申しましょうか。

欲を言えばもっと新の出番やモノローグが欲しいですが、たとえ出番が少なくてもきちんと丁寧に人となりが初期の段階から描かれていて、はっきりと人物像が確立されているのだと思います。(23巻の新の告白はびっくりしましたが、それでもとても「新らしい」と感じました。メインキャラ3人に限らず、様々な登場人物の人物像や背景がきちんと描写されていて、例えば「原田先生らしい」「肉まん君らしい」とそれぞれについて思えるのはこの作品の素晴らしいところだと思います。)

また、新は親しく言葉を交わす間柄の人に対しては、意外と(失礼)コミュ力が高い気がします。口を開けば要点のみで装飾的な言葉を言わない(何となく理系人間っぽい)のに、本質をズバリと言っても会話に機転と気遣いがあって、人を不快にさせないような上手さがあるんですよね。私が大好きなのは、勝義書店の店長にエロ本で絡まれて真っ赤になりながらも「人徳です・・・」と切り返すシーン(6巻)。まずここで、「もしや彼はステキ人材なのでは」と(私が)色めき立ちました。あと、じいちゃんの3回忌で「じいちゃんが父ちゃんと仲悪かったの超わかるわ・・・」と言うシーン(10巻)、あれも良かったです。「やめとけ」とか、「じいちゃん、怒るで」とか直接的でないのがまたいい。

このように相手を尊重しながら自分の意見を言ったり、対話相手の気付きを待つような言葉の遣い方ができる人は、色々な人に愛されるし、誰かにものを教えたりするのもきっと上手なんだろうな。観察眼に優れた頭の回転が速い人でないと、できない会話ですし。・・・とまあ、こんな小さなコマのやり取り一つとっても、やっぱり見事なキャラ立ち(笑)。実際の社会的地位はさておき、太一とは違った意味で「出世する・・・」と感じました。こんな17歳がいるのか、すごいな。うらやましい。

(そして、17巻の「詩暢ちゃん 崩していくで」で、私、完全に落ちました。
なにこれ、かっこいい・・・///!!!)

そんなこんなでズッキューンときてしまい、今や私の中で新さんは、情熱、努力、誠実さ、まっすぐさ、照れ屋、大胆さ、冷静さ、素直さ、負けず嫌い、男気、色気(恐らく一部にのみやたらアピール力のあるw)などなど、語りつくせないほどの要素がたくさん詰まった「ベスト・オブ・ザ・ベスト男前メガネ君」となりました。

新の出番は本当に本当に待ち遠しいのですが、これは、千早と同じ気持ち「新は・・・どんな気持ち?わかんない、全然。でもわかりたくて。」(17巻)を共有しましょうという天の声でしょうか。そして、もしかして天は読者に対してもドSなんでしょうか。

・・・つらいけど、私、頑張る。
でも、お願いですからもっと出番をプリーズ(←切実)。



●大学は東京へ

小学6年生で新が千早や太一の小学校に転校したのは、父ちゃんがじいちゃんとケンカをして家を飛び出したという本当にしょうもない理由。彰さんは憎めないお人柄ですが、一家の大黒柱としてはオイオイな行動です。

やたら現実的な話になりますが、地方出身者がろくな経済基盤もないままに東京(府中)に、しかも子連れで引っ越すというのは中々無茶な行為で、狭いアパートで空気を吸っているだけでお金を取られるような気にさせられます。引っ越しの経緯を考えると大した準備もないままの転居と考えられますし、多少の貯蓄があったとしても先行き不安で使うに使えず、貧乏暮らしを余儀なくされたであろうことは想像に難くありません。いくら明るい貧乏とはいえ、大好きなじいちゃんと離れ、友達ができるかもかるたができるかも分からない状況での心細い日々。千早や太一と友達になり白波会にも入会して、やっと笑顔がみられるようになった矢先にじいちゃんが倒れて、福井に再転居。

2度の転居や介護(特に認知症が進んで「じいちゃんはじいちゃんや」状態でなくなってからの)について、新が文句や愚痴を言うことは恐らくあまりなかったのではないかと想像しますが(小6で新聞配達をして家計を助けようとする子が親が心配するようなことを吐き出せるとは思えない)、多感な時期に我が儘も言わずに様々な想いを胸に仕舞い込んで、どれほど苦しかったのだろうと思います。さらに、大好きなじいちゃんを一人で死なせた咎に向き合って大好きなかるたを1年半とることができなかった日々。どれほど自分を責め続けてきたのだろうと思います。

そうした過酷な状況を経て、新がまた夢に向かってまっすぐにかるたを楽しめるようになった。そして成長して自分自身で環境を選ぶことができるようになった。何よりもそれが本当に嬉しいです。経済的には大変そうですが、学資保険、奨学金、バイト、大学によっては授業料免除や奨学金の返済免除制度もあるので、どうか頑張って!

さて、なぜ東京なのかという理由については、作中では現時点で明らかにされていませんが、まぁ色々あって行ってみたいんだろうなと思います。

一つには、千早や太一とまたチームになってみたいのかもしれません。

また、23巻の告白以降は、千早個人とかるたがしたいというのが追加されました。

さらに、栗山先生が「東京は層が厚いの~」と言っていますので、サッカー選手が欧州に、野球選手がアメリカに行きたいと思うのと同じような理屈でしょうか。特に、かるたの多様性への好奇心が強いのではないかと思います。高2の高校選手権個人戦で肉まん君との対戦で、「タイプの違うかるたがあるんや」「すごいな」と頬を染めてモノローグで語っています。福井南雲会でも十分強くなれるのかもしれませんが、同門だと配置やスタイルが似るでしょうし、とにかく一度別の世界で羽ばたいてみたいのでしょうね。

新が東京で様々なカルターと出会い、ワクワクしながら楽しそうに対戦している姿が目に浮かぶようです。ああ、若いってステキ。

そのような感じで何だかんだと理由はあるのでしょうが、新の東京行きはつまるところ、彼の「勝負師としての嗅覚が優れているから」という一言でほぼ説明できるような気がします。新は基本は理路整然としたタイプだと思うのですが、時折「(理由は分からないが)~しないとあかん気がする」というような趣旨の発言をしています。そして、それはきっと正しい。

おそらく、名人としての高みを目指し、それを維持するために必要なもの、およびその先にあるものを見据えた時に、大学進学のタイミングで東京に行くことが必要であると彼の第6感が告げているのでしょうね「私のゴーストが囁くの」的な。新は12巻で人とのつながりを通じてかるたの強さを再定義していますので、名人になった後のことも視野に入れている様子ですし。そして、新本人がどこまで自覚的かは分かりませんが、千早との絆を今後も確かなものにするためにも、「今でしょ!」ということなんだろうと思います。


【結論(?)】
ロールキャベツはとっても美味しい。

太一は何のためにかるたをするのか?

【注意】
・ ちはやふる29巻部分のネタバレを含みます。
・ 長いです。しかも、問いに対する明示的な解を憶測でしか提示できていません。
・ 太一への愛は十分にあるつもりですが、あらちはエンドを前提として
  考えています。



物語の裏主人公、真島太一(Wiki認定)が何のためにかるたをするのかについては、簡単には答えの出ない問題で、「ちはやふる」という物語の肝の一つと言っても過言ではないのではないかと思います。現時点で太一自身にも恐らくは分かっていないことで、理由も一つではないのかもしれません。太一の成長と絡めて物語の終盤でその答えが明かされるのかもしれないと期待していますが、待ちきれなくて(笑)考えてみました。


27巻の周防さんとのやりとりによって、太一は「かるたを好きではない」が、「周囲のかるたをする人々が好き」だから、「かるたが心底好きな人々に囲まれてかるたをすることに堪えられた」ということが明らかになっています。そして、150首の周防さんとのかるたで、「チームを手放して一人になって初めてかるたが楽しい」と述懐しています。

以下に、太一がかるたをする本当の理由について、可能性のあるものを並べてみます。


①千早のため

高校1、2年の間は、千早と一緒にいたかった、千早を支えるためだったという側面があるのは否定しませんが、恐らくそれは根本理由ではない。太一は、千早と離ればなれだった中学時代も白波会から離れたところでかるた同好会で細々とかるたを続けていますし、千早への告白後も瑞沢チームや白波会から離れて周防さんとかるたを続けています(さらに小説版では、かるた同好会は太一が自分で作ったとされている)。ということで、「周囲のかるたをする人々が好き」は、チームの中で堪えられた理由であって、太一が何のためにかるたをするのかという答えにはならない。

ただ、千早の目線の先には常にかるたが強い人(新、詩暢ちゃん)がいたため、千早の視界に入るほど強くなりたい、千早に勝ちたいというのが強烈な動機として存在したのは確かだと思います。(17巻の千早のモノローグ「太一がA級、つまりライバル!」の後の太一の嬉しそうな顔と言ったらないですよね。)


②「卑怯じゃない人間になりたい」

よく太一のモノローグにも上がっているフレーズで、理由の一つではあるのでしょうが、その自己実現のための手段がかるたである必然性がない。小学校、中学校とずっと続けてきたサッカーでも良かったわけですが、そうはしなかった。

感じ方は人それぞれだと思いますが、私は個人的には、高校に入ってからの太一を卑怯だと感じたことはないのです。(小学生時代はフォローのしようがないですけどね。千早のことがあったとはいえ、新をいじめたり、眼鏡を隠したり、新が見えていないのをいいことにこっそり札の配置を変えたり。。。)
一般的には、程度の差こそあれ誰にでも黒歴史の一つや二つありそうなものですが、太一は子供の頃の卑怯な自分を忘れずに向き合って、それを正そうとし続けた。その志は尊いと思います。

26巻で千早に無理やりキスして呪いのような言葉を吐きつけたことを卑怯だという意見もあるかもしれませんが、個人的には卑怯というよりは未熟なゆえのみっともなさ、八つ当たり、やり場のない憤りだと感じました。実際、過去にも太一は先にA級に昇格した肉まん君や、チーム作りに興味を持った新に八つ当たり発言をやらかしてますしね。ケツの穴が小さいのとズルいところがあるのは小学校時代から相も変わらずといったところですが、「卑怯じゃない人間になること」についてはすでに努力によって達成されているのではないでしょうか。

卑怯な自分というのは、千早には一番知られたくない太一の暗部です。眼鏡の一件が、長きにわたって非常に重い足枷となっていたのは、当時、千早が太一はそんなことをする人ではないと信じてくれていたのに、新に「千早には言わないで」「千早には嫌われたくない」と口止めして済ませようとした行為が卑怯な行為だったと、太一が認識しているからだと考えられます。

新の眼鏡を隠したことを、5年の歳月をかけてやっと千早に打ち明けた末に、好きな気持ちを告白できた。足枷をやっと外すことができたという感じでしょうか。マイルールで自分を縛り上げ、能力が高いばっかりに際限なく彷徨い続けているようで、見ている方が苦しいですね。ま、眼鏡の件は千早にしてみれば、「ハァ・・・!?」としか言いようがないですけど、裏返せばそのギャップが太一の自縛行為の凄まじさなのだと思います。


③「青春全部懸けたって新より強くなれない」 → 「まつげくん、青春全部懸けてから言いなさい」

これは核心に迫るものがあるような気がしますが、理由そのものかと問われると少し違うような気がします。

「勝てるものだけで勝負しなさい」とミセスプレッシャーから育てられた太一。
一つには、圧倒的なかるたの実力を持ち、恋敵でもある新に対し、勝てなくても勝負に向かっていける自分になりたいというのが動機としてあったと思います。高校2年の全国大会団体戦決勝で、新に似た雰囲気を持つ富士崎主将のエロムに対し、「団体戦のおれは新だって怖くない」と自ら向かっていった。また、絶望的に思える場面で「3勝するぞ」と仲間を鼓舞した(15巻)。(このシーンは、心から感動しました。) 
さらに、高松宮杯(26巻)で実際に新と戦っているわけで、勝てなくても勝負に向かっていける自分というのはクリアされています。

二つには、文字通り青春全部懸けて新より強くなりたいという動機。

22巻の挑戦者決定戦で新と戦う原田先生を見て、太一は「青春全部懸けてきたからこそ怖いんだ」「何も残らなかったら?悔しさしか残らなかったら」と述懐していますが、太一にとって青春全部懸けて残ってほしいものは、本当に「新に勝つ」「千早に勝つ」「千早と結ばれる」というところにあったのかどうか。決定戦での原田先生の勝利に涙し、「原田先生は青春どころかずっとずっと」というところに、その先にあるものの予感を感じ取った太一の迷いと困惑が見て取れるように思います。


④「自分になりたい」
「原田先生、おれにもできるかな。負けながら、泣きながら、前に進むことが。新に向かっていくことが。」

「負けながら、泣きながら、前に進むこと」ができる自分になること。(新に向かっていくことはその象徴?)
これが最も正解に近い気がするのですが、実際問題とても難しくて曖昧な感じがします。身も蓋もない話ですが、どんな自分になりたいのかという着地点は、結局は太一自身が見つけるより他はないからです。

二つ目の「原田先生、おれにもできるかな。負けながら、泣きながら、前に進むことが。新に向かっていくことが。」は、「青春全部懸けてから言いなさい」と密接にリンクしています。物語が進むにつれて、太一の心境も、早くA級になって同じ土俵に立ちたい → 負けると分かっている勝負でも立ち向かう → 負けて悔しい → 勝ちたい(?)と、ステージが変化しているように思います。たとえカッコ悪くても、「負けながら、泣きながら」確かに前に進んでいるのです。それこそ、「青春全部懸けてきた」と自負できるほどに。


太一を形容する代表的な言葉に「不憫」というのがありますが、私は太一のみを殊更に不憫キャラとして扱うのは何か違う気がします。かなちゃんや白波会の女性キャラの度重なる発言で、なんか太一って不憫とか不運とかいう気にさせられますが、太一が報われないのはほぼ恋愛の一点のみで、特に高2以降のかるたの戦績を見ると、特別「感じ」の才能には恵まれなかったものの、それ以外の才能(記憶力、戦略、体力、覚悟、体格など)には十分に恵まれ、何より「感じ」の悪さを補う試合の組み立てができるレベルにまで到達しています。太一の努力は、確実に戦績(A級上位に食い込んでいる)に表れているといっていいでしょう。(恋愛面では、太一の行動が結果的に千早と新の仲立ちとなったりしていて、確かに不憫な立ち位置だと思います。)

不憫さ比べで言ったら、例えば、大人の都合で別離を2回、貧乏、いじめ、介護、さらには大好きなじいちゃんを一人で死なせた咎に向き合って大好きなかるたを1年半とることができなかった新の比ではないはずです。また、いつまでたってもA級に昇格できず、後輩にも追い抜かれていくヒョロ君も、相当不憫でしょう。蛇足ながら、「努力」「優しい」「強い」といった表現も、「ちはやふる」に登場する男性キャラ(女性キャラもかな?)のほとんどすべてに当てはまるのではないでしょうか。

まぁ、「イケメン」は圧倒的に太一の一人勝ちですね。(綿谷始(34)の降臨を除く。)
次点は、新。(個人的には、「男前」であれば新の圧勝だと思っています!)
心のイケメンは村尾さん、机君ほか皆。・・・閑話休題。

このように考えると、太一個人を形容する独自性のある言葉があまりないのが分かります。(「ケツの穴が小さい」「ズルい」「器用貧乏」を挙げるのは、それこそ太一が不憫ですし、なりたい自分でもないでしょうからスルーの方向で。「器用貧乏」はすでに脱しつつありますしね。)


さて、小学生時代の太一がインターネットで近隣のかるた会を調べて白波会に行ったのは、千早が関心を持った新とかるたへの対抗心があったと思われますが、受験で忙しくてもかるたを続けようと思ったのは、チビ新の天然タラシ発動シーン、「ナイス、太一」なんですね。言われた太一は、千早が新からかるたの才能があると思うと言われた時と同じように、キラキラしています。明らかに「嬉しい」と思っている。また、原田先生からこれからも白波会に来るかどうかを尋ねられて、「ナイス、太一」を思い浮かべて、塾があってもできるだけ来ますと言っている。このセリフの何が太一の心の琴線に触れたのか想像するしかありません(新の信頼が嬉しかった、とかでしょうか?)が、もしかしたら「自分になる」ための可能性をそこに見出したのかもしれません。ともかく、新に出会って価値観を揺さぶられたのは千早だけではなかった、ということは言えるかと思います。

結局「太一は何のためにかるたをするのか」という問題の前には、「太一にとって新とはどんな存在なのか」という問題が横たわっているような気がします。太一にとって、新は卑怯な自分をさらけ出した唯一の人(告白後の千早を除く)で、「千早には嫌われたくない」という太一の気持ちに共感し、その卑怯さを許してくれた人です。
友人、チーム、恋敵、ライバル、憧れ、コンプレックス、怖れ、壁・・・まだまだ他にもあるような。。とにかく複雑すぎます。
わざわざかるたという新の土俵で戦い、名人になりたいわけでもないのに修学旅行を休んでまで名人戦予選で東日本代表を目指したり、名人戦後に一人残って高松宮杯に出場したり。ドM属性ということを差し引いても、「この人はどうしてそこまで・・・」と思わざるをえません。

太一は恐らく客観的には、過去、現在、未来にわたってほぼすべてに恵まれた勝ち組人生を送るのでしょう。しかし、恵まれた勝ち組人生に価値を見い出せず、過去から現在に至るまでの自分自身を許容できていない状況のようにも思えます。でもようやく、少しずつですが、自分自身の特性と向き合えるようになってきた感じですね。(ポカ作さんや東西戦での原田先生や新を思い浮かべて、「あんなふうになりたい、でもなれないのがおれ」とか。周防さんとの試合でズルいと言われても「才能ないんで工夫しないと」とか。)

ズルくったっていいじゃない、使い方さえ間違えなければ。
高校2年の全国大会団体戦決勝で、富士崎主将のエロムのお手付きを誘ったあのシーン。あれぞまさしく太一の真骨頂だと思います。
149首でヒョロ君がいいことを言っていました。
「試合のために相手を心理的に揺さぶるのは悪いことじゃねえ。でもそれがただのお前の了見の狭さなら今のうちに自覚しとけ。」
大事なので二度言いますが、使い方、重要ですね。

太一という人は究極的には自己満足の世界の住人で(←ヒドイ)、長い旅路を経て自分で納得のいく答えを見つけるしかないのかもしれません。でも、高2の高校選手権団体戦決勝で太一が自覚したように、熱をくれるのは今まではいつも千早だったとしても、みぞおちの下から湧いてくる熱いマグマのようなものは太一自身の中に確かに存在しているはず。「自分になりたい」とは、本質的には他者に情熱を委ねるのではなく、自分の心から沸き起こるものに出会うこと、そして自分自身の意思で熱さを持続させることなのかもしれないなと感じます。

ちはやふるの世界で、太一のことを好きではない、もしくは許容できないのは太一本人のみ。太一杯は、太一の別離に向けてのカタルシス演出の他に、太一がどれほど周囲の人に愛されているのかがよく分かる描写だったと思います。おまけ4コマでも「うちの部の男子、部長を好き過ぎる」とかありましたね。時間がかかっても、太一の好きな周囲のかるたをする人々もまた、太一のことが大好きなのだと。頭で「自分が一人じゃないことぐらい分かってる」と理解するだけではなく、心で実感してくれれば嬉しいなと思います。7巻の梨理華ちゃんと対戦中の千早のセリフ「なんだっていい、かるただってなんだって。なにかを大好きになってほしい、自分を大好きになってほしい」は、ぜひ太一に向けて言ってあげてほしいなあ。言う人は千早でなくてもいいので。

小学生時代の千早のセリフ「ずっと一緒にかるたしよーね」は、新だけではなく太一にも言っているんだよ~!
勝手な理想ではありますが、太一が様々な葛藤を乗り越えて、いつかまた3人でかるたをするところが見たいです。


【結論(?)】
原田先生、太一をカラオケに誘うなら、ぜひアナ雪の「レリゴー♪」を選曲してあげてください。

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